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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策新潟県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2023年10月12日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、新潟県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行新潟支店の業務運営に日頃より多大なご協力をいただいておりますほか、本年5月のG7財務大臣・中央銀行総裁会議開催にあたっては様々なご尽力を頂き、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日は、まず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しした後、日本銀行が掲げる2%の「物価安定の目標」の達成を通じた経済成長実現への展望について、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

現在のわが国経済は、感染症禍から脱する中で、長年の課題であった「物価と賃金の好循環」実現に向けた動きが徐々に生じつつあるという意味で、大きな転換点にさしかかりつつあるように思われます。わが国経済は、1990年代のいわゆるバブル崩壊以降、物価と賃金の低迷に悩まされ続けてきました。しかし、2021年春頃から始まった世界的なインフレの影響は日本にも及び、わが国でも2022年春以降は、生鮮食品を除く消費者物価の前年比が2%を超える状況が続いています。そうした中で、本年の春季労使交渉では、30年ぶりの賃上げが実現されました。現在の最大の焦点は、この賃上げのモメンタムが今後も維持されていくか否かにあります。

海外に目を転じると、多くの国・地域においては、経済の正常化に伴って生じていた高インフレがようやく収束し始める中で、緩やかな経済減速が続いています。すなわち、米欧では、2022年には消費者物価上昇率が8から10%程度にまで達し(図表1)、各中央銀行は、高インフレの抑制のために政策金利を急速に引き上げてきました(図表2)。ごく最近までは、この根強い高インフレの抑制のために各中央銀行がどこまで金融を引き締めるのかについて不確実性が高い状況が続いていたため、市場では時に金利や為替が大きく動いてきました(図表3)。しかし、各国・地域の経済状況をみる限り、ようやく目標に向けたインフレ抑制の道筋がみえ始めてきたようにも思われます。仮に各中央銀行がこれ以上大きく利上げする必要もなく高インフレが沈静化していくとすれば、緩やかな減速はある程度は続くにしても、一頃喧伝されていたハードランディングのリスクは減少していくようにも思われます(図表4)。

こうした中で、わが国経済の現状をみると、2023年1-3月期のGDPは年率換算で前期比3.2%増、同4-6月期には4.8%増になるなど、感染症禍から脱する中で、景気は緩やかに回復しています(図表5)。GDPの内訳をみると、1-3月期の成長がほぼ内需によるものであったのに対して、4-6月期の成長は、民間消費などの内需の寄与がマイナスになる中で、純輸出の急拡大が大きく寄与しました。その純輸出拡大の背後には、供給制約の解消による自動車生産・輸出の回復、感染症禍からの脱却と円安を受けたインバウンド需要の拡大、円安による輸入の国内代替とともに、海外経済の底堅さがあったと思われます。

このように海外経済は減速しつつも依然として底堅い状況にありますが、その中で急浮上してきたのが、中国経済のデフレ化あるいは「日本化」リスクです。日本ではかつて、資産バブル崩壊によって企業、金融機関、家計のバランスシートが悪化し、民間投資や消費を抑制したことから長期デフレに至りました。中国経済が同様な状況に陥りつつあるのか否かはまだ不明ですが、中国経済の屋台骨であった不動産業の苦境、若年層を中心とした失業の拡大、最近の低インフレ等は事実であり、中国当局の今後の財政・金融的対応策も含め、注視が必要です。

(2)物価情勢

次に国内の物価情勢です。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、2022年4月に2%を超え、同年末前後には4%程度に達しましたが、その後は政府の支援策によるエネルギー価格の低下もあって3%程度まで低下してきています(図表6)。このように、世界的なインフレによる輸入価格上昇の影響を受けた物価上昇圧力については、足元ではようやく収束に向かう兆しがみえつつあります。とはいえ、展望レポートで示している2023年度の生鮮食品を除く消費者物価上昇率の見通しが4月時点での1.8%から7月に2.5%へと引き上げられたことが示すように、物価上昇圧力は想定以上のものとなっています(図表7)。それは、輸入原材料価格が既に低下し始める中でも、原材料コスト上昇を価格転嫁する動きが食料品や日用品を中心として広範に続いていることによります(図表8)。

今後の消費者物価は、価格転嫁が一巡する中で輸入価格上昇の影響が次第に剥落していくと予想されるため、本年度後半にかけて低下していくと考えられます。この低下の動きが一段落したのちに、2%「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現されるようになるためには、後述のように、2%を明確に上回る名目賃金上昇がトレンドとして定着し、これまでの根強い「物価・賃金のゼロノルム」が払拭されることが必要です。本年の春季労使交渉で実現された30年ぶりの賃上げは、この点で画期的な意味を持っています。

3.金融政策

(1)イールドカーブ・コントロール政策の運用とその柔軟化

次に金融政策についてご説明します。日本銀行は、2%の「物価安定の目標」を実現するため、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後は、経済・物価情勢に応じた金融緩和強化のために、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を、同年9月に「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入しました。このいわゆるイールドカーブ・コントロールでは、10年国債金利の目標値をゼロ%程度とするもとで、当初は、市場ではそれが±0.1%程度の範囲内で変動していました。2018年7月には、±0.1%の倍程度を念頭に経済・物価情勢等に応じて変動しうるものとしました。さらに2021年3月には、変動幅を「±0.25%」程度へと明確化した上で、その上限を厳格に守るために、一定期間、国債を一定の利回りで無制限に買い入れる指値オペを連続して行う「連続指値オペ制度」を導入しました。そして、昨年12月にはこの変動幅を「±0.5%」程度へと拡大しました。

日本銀行がこのように10年国債金利の変動幅を拡大してきたのは、2%の「物価安定の目標」の実現には長期金利の低位安定が必要な一方で、長期金利の抑制には市場機能に影響を及ぼす面もあるためです。実際、昨年の一時期には、この後者が大きな問題となっていました。世界的なインフレの加速に伴う各国の長期金利上昇によって、日本の10年国債金利も昨年春頃からは当時のイールドカーブ・コントロールの上限であった0.25%に貼り付くようになっていました。日本銀行はそれ以降、指値オペなどを積極的に用いて、日本経済の回復を阻害しかねない長期金利の高騰を防ぎましたが、その措置は他方で、イールドカーブの顕著な歪みをもたらしました。この歪みは、昨年12月に変動幅を拡大した後、本年春頃に世界的に金利が低下する中でほぼ解消されました(図表9)。

日本銀行は本年7月にさらに、これまで「±0.5%」程度としてきた長期金利の変動幅を「目途」と位置付け直した上で、指値オペによって厳格に守る上限を0.5%から1%へと引き上げました(図表10)。これは、許容変動幅がその分だけ拡大したという点では、イールドカーブ・コントロールの運用がより柔軟化されたことを意味します。ただし、「変動幅の目途」を超える0.5%から1%までの領域では、長期金利の水準や変化のスピード等に応じて機動的なオペを実施することも通じて、10年国債金利は緩やかに抑制されることになります。このようにインフレ期待などの変化を伴わない過度な金利上昇は抑制することも踏まえますと、この柔軟化は金融緩和の縮小を意味するものではありません。

柔軟化措置をこの段階で行ったのは、イールドカーブ・コントロール政策は本来、「先手を打って柔軟化していかないと維持が困難になる」という性質を持つからです。仮に今後、日本経済に2%の物価上昇が定着し、政策金利の引き上げが確実になれば、長期金利は当然、その政策金利の将来パスを織り込んで上昇していきます。その段階で長期金利を無理に抑え込もうとすれば、イールドカーブは必然的に大きく歪みます。さらには、市場では長期金利の上限突破を狙った投機アタックが頻発し、最悪の場合にはイールドカーブ・コントロール自体が維持できなくなる可能性もあります。そのため、インフレ期待が上昇し始めるような段階では、イールドカーブ・コントロール政策による金融緩和の継続のためにも、ある程度の柔軟化が必要になるのです。

(2)金融緩和と中央銀行のバランスシート

日本銀行は2016年9月から現在まで、そのフォワードガイダンスにおいて、「物価安定の目標」を安定的に持続するために必要な時点まで「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を継続すること、マネタリーベースについては生鮮食品を除く消費者物価の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまでは拡大方針を継続することを掲げています。そうしたもとで、日本銀行のバランスシートがトレンドとして拡大し続けてきたことは、「インフレ抑制のための金融引き締めを将来的に困難にする」といった批判の対象ともなってきました。

結論としては、こうした批判は必ずしも正しいものではありません。日本銀行のみならず主要中央銀行の多くは、世界金融危機や感染症危機以降に政策金利の下限に直面して大規模資産購入政策に移行したため、そのバランスシートは大きく拡大しました(図表11)。そうしたもとで、それらの中央銀行は現在、バランスシート調整は量的引き締めを通じてある程度時間をかける形で行いつつ、政策金利を大幅に引き上げる形で金融引き締めを行っています。それは、政策金利としての短期市場金利がもっぱら金融調節運営を通じて誘導・維持されていた伝統的政策の時代とは異なり、現在は政策金利が主に中央銀行当座預金への付利を通じて設定・誘導されており、政策金利操作とバランスシート調整は切り離されているためです。

現状の世界的高インフレが続く限り、各中央銀行は、政策金利引き上げとともに、バランスシート縮小を続けていくと思われます。他方で、相当規模のバランスシートが維持されたまま、現在の高インフレが収束する可能性もあります。その場合、中央銀行は当面、バランスシートの規模が受動的に決まっているもとで短期市場金利を金融調節によって誘導・維持していた伝統的政策枠組みには戻らないことになります。

4.物価安定を通じた経済成長実現への展望

(1)世界的インフレの影響と物価の基調

世界の各中央銀行はこれまで、経済正常化の進展とともに生じた高インフレの抑制のために、政策金利を引き上げてきました。そうした中で、多くの国・地域では、供給制約の緩和やペントアップ需要の一巡もあり、それまで昂進し続けてきた物価上昇率もようやく低下に転じてきました。とはいえ、現在でも多くの国・地域で、各中央銀行の目標を大きく上回る物価上昇が続いており、各中央銀行は、物価目標の達成までは金融引き締めを継続することを明確にしています。

この世界的インフレの影響は日本にも及び、わが国でも2022年春以降は、生鮮食品を除く消費者物価の前年比が日本銀行の目標である2%を超える状況が続いています。しかし、他の中央銀行とは異なり、日本銀行は一貫して金融緩和を継続してきました。それは、現在のインフレは基本的には輸入価格上昇の影響によるものであり、国内のマクロ経済要因に基づく趨勢的なインフレ率としての「物価の基調」は未だ十分に高まってはいないと考えられるためです。

日本銀行が掲げる2%の「物価安定の目標」が、この輸入価格上昇の影響が完全に剥落した場合においても持続的・安定的に実現されるためには、「物価の基調」が2%近傍で安定することが必要です。そして、そのためには何よりも、名目賃金が2%物価安定目標と整合的な水準で上昇し続けることが必要です1。というのは、名目賃金が一定のトレンドで上昇すれば、主にサービス価格等への寄与を通じて、物価それ自体もまた一定のトレンドで上昇する傾向を持つからです。日本銀行が本年4月に、フォワードガイダンスを「粘り強く金融緩和を継続していくことで、賃金の上昇を伴う形で、2%の『物価安定の目標』を持続的・安定的に実現することを目指していく」と明確化したのは、そのためです。

  1. 1実質賃金上昇率は長期的には労働生産性上昇率とほぼ等しくなることから、仮に労働生産性上昇率を1%とすると、その値に2%を加えた3%が「2%物価安定目標と整合的な名目賃金上昇率」となります。ただし、労働生産性上昇率は、基本的には研究開発や事業・生産プロセスの改善といった個々の民間企業の努力を通じて事後的に決まるものであり、その値をあらかじめ特定できるわけではありません。

(2)重要な物価安定と経済成長との両立

以上のように、日本銀行を含む世界の主要中央銀行はいずれも、方向性に違いはあれ、消費者物価の前年比が2%近傍で安定する状態を達成・維持することを目標として金融政策を運営しています。それは、各国のこれまでの経験や専門家による考察から、物価安定と経済成長の両立にとっては、トレンドとしてある程度のマイルドなインフレが定着していることが望ましく、したがって高インフレはもとより、デフレや過度に低いインフレもまた望ましくない、と考えられているためです。

主要中央銀行の多くが現時点で金融引き締めを続けているのは、多くの国・地域で生じている現在のインフレは、主に労働供給によって制約される経済の潜在的な生産可能性を上回る過大な需要によるものと考えられるためです。この状況でのさらなる経済的刺激策は、生産の拡大ではなく、単により高いインフレをもたらすにすぎません。そして、過度に高いインフレは、それ自体が経済的な非効率をもたらします。インフレとは基本的に、あらゆる経済取引の基準となっている通貨価値の毀損を意味しますので、将来にわたる経済取引の安定的遂行という観点からは、長期的な経済成長を阻害しない限り、できる限り低い物価上昇率が望ましいともいえます。

中央銀行がとりわけ懸念するのは、高インフレの持続がインフレ期待に織り込まれて名目賃金のさらなる上昇が生じるという「インフレの二次的波及」であり、それを通じた賃金・物価スパイラルの発生です。実際、1970年代には多くの先進諸国でこうした現象が生じ、各国政策当局はその対応に大いに苦しみました。各中央銀行がこれまで行ってきた金融引き締めは、そうした事態に追い込まれることの回避を一つの大きな目的としていたと考えられます2

他方で、持続的な経済成長の実現という点では、デフレや過度に低いインフレもまた望ましいものではありません。そのことは、これまでの日本のマクロ経済的推移を概観すれば十分に明らかです。日本経済は1990年代に生じた資産バブルの崩壊以来、長期にわたる経済的低迷を経験することになりましたが、そこで生じた最も特徴的な現象は、ディスインフレすなわち物価上昇率の低下であり、さらにはデフレすなわち物価の下落でした。とりわけ1990年代末から2000年代までは、日本の経済成長率が低迷し、完全失業率が高まるもとで、物価の低下以上に名目賃金が低下し、実質賃金が低下する傾向が続きました(図表12)。

日本銀行が大規模金融緩和を開始した2013年頃からは、物価が低下し続けるという意味でのデフレはほぼ解消されました。また、労働需給の改善によって完全失業率が低下し、少なくとも名目賃金が低下し続けることはなくなりました。とはいえ、後述する「物価・賃金のゼロノルム」はきわめて強固であり、消費者物価上昇率も名目賃金上昇率もともに1%にも安定的に届かない状況が、少なくとも感染症禍の直前までは続いていました。

  1. 2英国では現在、依然として高インフレが続いていますが、BOEの金融政策委員会はそれに関して、「外的なコスト・ショックによって生じた国内物価と賃金の上昇の二次的な影響は、その発生よりも解消に時間がかかる可能性がある」と指摘しています。
    https://www.bankofengland.co.uk/monetary-policy-summary-and-minutes/2023/august-2023

(3)2%の「物価安定の目標」実現の重要性

こうした日本の経験も踏まえると、経済が安定的に成長し続け、その中で人々の実質賃金が着実に上昇し続けていくためには、消費者物価が2%近傍で安定的に上昇し続けていくことが必要と考えます。それは、ゼロ近傍のあまりにも低い物価上昇率の継続は、物価や賃金が本来的に内在している強い固定性あるいは粘着性をより強めるように作用し、結果として経済の効率性や成長可能性を阻害することになり得るためです。

企業の価格設定行動にはしばしば、価格引き上げを可能な限り避けようとする強い力が働きがちです3。とりわけ日本では、1990年代から続いた経済停滞を通じて、企業の価格引き上げが販売減少に直結する事例が拡大したことから、多くの企業において「賃金コストの抑制を通じた販売価格の維持」が優先されるようになっていきました4。その結果として企業や家計に強く根付いたのが、「物価も賃金も上がらないことを常態とする通念」としての物価・賃金のゼロノルムであったと考えられます。

日本の物価に強い上方硬直性が定着していることは、消費者物価上昇率のトレンドが日本よりも高い他の先進国と比較すれば容易に確認できます。例えば日米間で価格変動率の品目別分布を比較してみると、とりわけ感染症禍以前(2019年9月)では、分布の「山」の位置だけではなく、そのばらつきも大きく異なっています(図表13)。すなわち、日本では変動率がゼロの位置に多くの品目が集中し、かつその集中度合いが高いのに対して、米国ではプラス2%前後の変動率に最も多くの品目が集中しつつも、その集中度合いは低く、全体として価格変動のばらつきが大きくなっています。なお、足元では、日米両国ともにインフレの進行を反映して価格変動の分布それ自体が右にシフトしています。

市場経済においては本来、需要側や供給側に生じるさまざまな変化やショックに対して、財やサービスの価格が適切に調整されることを通じて、労働を含む生産資源の効率的な利用が実現されます。したがって、この日本の場合のように価格に強い硬直性が存在することは、例えば受注の数量割り当てといった、数量調整による非効率的な資源配分が構造化されている可能性を示唆します。

また、物価・賃金のゼロノルムが意味する物価や名目賃金の上方硬直性は、所得分配の歪みが構造化されることをも示唆します。仮に労働生産性が上昇しているにもかかわらず物価や名目賃金の上昇率がゼロとすれば、実質賃金上昇率もまたゼロとなり、労働者は生産性上昇の恩恵をまったく享受できないことになります。実際、感染症禍前の2010年代の日本経済では、時間当たりの労働生産性は平均的に1%程度は上昇し、企業収益は拡大傾向にあったにもかかわらず、実質賃金の上昇は容易には進展しませんでした。

さらに、デフレや低すぎるインフレは、長期的な成長可能性としての潜在成長率にも負の影響を及ぼす可能性があります。「企業の積極的な省力化投資を通じて経済全体での生産性改善が実現されるためには、適度な労働需給の逼迫とそれに伴う適度なインフレが必要である」という考え方は、高圧経済論と呼ばれています。その見方によれば、デフレや低インフレ環境では逆に、投資が縮小して生産性の改善が遅れ、潜在成長率が低迷する可能性が高まることになります。実際、1990年代以降の日本では、デフレや低インフレの中で民間投資が低迷し、通常は赤字(資金不足)となることが多い民間企業部門の貯蓄投資差額は恒常的に黒字(資金余剰)を計上していました(図表14)。そして、潜在成長率はその間、傾向的には労働投入の変化以上に低下し続けました(図表15)。

  1. 3この現象は古くから屈折需要曲線という概念によって説明されてきました。その背後には、戦略的補完性と呼ばれる競合他社への対抗戦略が存在すると考えられます。それに関しては、Maiko Koga, Koichi Yoshino, and Tomoya Sakata “Strategic Complementarity and Asymmetric Price Setting among Firms,” Bank of Japan Working Paper Series, No.19-E-5, 2019.を参照して下さい。
  2. 4こうした企業行動はマークダウンとして観察することができます。それに関しては、青木浩介・高富康介・法眼吉彦(2023)「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-4)を参照して下さい。

(4)物価・賃金のゼロノルム転換のための条件

日本にとっての現在の焦点は、2%の物価上昇が賃金上昇を伴って持続的・安定的に実現されるか否かにあります。その実現には、デフレと低インフレの中で日本に定着した物価・賃金のゼロノルムすなわち「物価も賃金も上がらない」という通念の転換が必要です。そのノルム転換にとって不可欠な条件とは、第一に企業による価格転嫁の進展であり、第二に2%を明確に上回る名目賃金上昇であり、第三にその「物価上昇に負けない賃金上昇」期待の定着です。

第一の企業による価格転嫁に関しては、上振れを続けている消費者物価の動向が示すように、全体としては想定以上に速やかに進展していると判断できます。中小企業が十分な価格転嫁を行うのは難しいという声が依然として根強いのは確かですが、取引先との共存共栄を企図したパートナーシップ構築宣言のような取組みもあり、状況は明らかに改善しつつあるようにみえます。

価格転嫁の一層の進展が重要なのは、それがなければ「2%を明確に上回る名目賃金上昇」という第二の条件の実現もまた困難となるためです。企業にとっては、労働生産性上昇分以上の賃上げは収益悪化に直結しますので、賃上げ分の価格転嫁が不可能な場合、労働生産性上昇を上回る賃上げはきわめて難しくなります。その状況ではむしろ、原材料価格の上昇に対して、販売価格抑制のために労働コストを削減することで、労働の限界生産物収入と賃金の乖離を表す「マークダウン」が拡大する傾向が強まります。今回のコスト・プッシュ局面で労働コスト削減ではなくもっぱら価格転嫁が行われているのは、既に労働需給が相応に逼迫しており、賃金引き下げや非正規へのシフトといったデフレ期に拡大した労働コスト削減手法が困難になっているためと考えられます。

第二の条件である2%を明確に上回る名目賃金上昇に関しては、2023年春季労使交渉で基本給の底上げを示すベースアップが2.12%増、定期昇給と合わせると3.58%増となるなど、とりわけ今年に入ってから大きな進展がみられます(図表16)。感染症禍前の日本では、粘り強い金融緩和を通じて労働需要が拡大し、完全失業率や有効求人倍率の水準ではバブル期のピークにほぼ並ぶところまで労働需給が改善したにもかかわらず、名目賃金の上昇はなかなか実現されませんでした。その一因は、賃上げの価格転嫁が困難な中で、とりわけ離職可能性の低い正規雇用者の賃上げが抑制されてきた点にあったと考えることができます。今年に入ってからの賃上げ気運の急速な強まりは、既に労働需給が十分逼迫していた中で、輸入価格の高騰というショックがいわば「ビッグ・プッシュ」となって生じたものと考えられます。

第三の条件は、家計の中長期的なインフレ期待が2%まで高まるだけでなく、その水準を上回る賃金上昇が将来的にも続くという期待が定着することです。家計のインフレ期待は、昨年来の物価上昇を受けて着実に高まっています(図表17)。しかし、賃金が上がらない中で物価のみが上がり続けるとなれば、家計は実質消費を減らしていくしかありません。実際、最近の民間消費の動きからは、物価上昇による実質消費の抑制傾向が足元でやや強まっているようにもみえます(図表18)。

この家計の消費抑制傾向はおそらく、実質賃金の上昇すなわち「物価上昇に負けない賃金上昇」が実現され、それが継続すると家計が確信するようになるまでは残り続けます。その解消には何よりもまず、現在はマイナスとなっている実質賃金上昇率が、輸入価格上昇要因の剥落と賃上げのさらなる進展を通じてプラスに転じることが必要です。日本銀行の当面の使命は、粘り強い金融緩和の継続を通じて、その状況を可能な限り早期に実現させることにあります。

5.おわりに ―― 新潟県経済について ――

最後に、新潟県経済について、支店からの報告も踏まえてお話しいたします。

当地経済も感染症禍からの正常化が進んでいます。地域のイベントも感染症の影響で中止ないし規模縮小を余儀なくされてきましたが、足もとでは、長岡、柏崎、小千谷などの花火大会や、新潟まつりなど、今年は本格開催の実現により以前の賑わいを取り戻し、本来の魅力を発揮しています。

そうしたもとで新潟県の景気は、生産面を中心に海外経済の減速の影響がみられますが、内需を中心に緩やかに持ち直しているとみています。企業の好調な売上動向や先行きの需要増加見通しを背景に設備投資も増加しているほか、雇用・所得環境が改善する中、堅調なペントアップ需要に支えられて個人消費は回復しています。

新潟県の最大の強みはおそらく、豊かな自然、そしてモノづくりにおける高い技術力と品質へのこだわりにあります。新潟県は、新潟平野に注ぐ信濃川や阿賀野川等の豊かな水資源をはじめとした天然資源に恵まれています。米をはじめとして農林水産業では高いブランド力を有しており、県の代表的な特産品である米を原料とした日本酒や米菓も全国的に広く知られているところです。また、越後三条打刃物や燕鎚起銅器、新潟漆器といった伝統工業をはじめ、古くからモノづくりが盛んな地域です。そうして培われた技術は、金属製品や電子部品・デバイスを含む電気機械等にも継承され、世界市場を視野に入れて現在も当地の経済活動を支えています。

ただ、やや長い目でみれば、当地経済の先行きを不安視する声も聞かれます。この背景には、少子高齢化や人口減少などの課題に直面する中で、県内市場の縮小や当地経済を担う人材の不足が懸念されていることがあります。当地の景気が持ち直している中で、人手不足への対応は喫緊の課題です。しかしながら、こうしたピンチはチャンスでもあります。今後の方向性としては、賃上げを含む人的投資やデジタル化をはじめとする省力化投資などによって、当地の労働生産性が向上し、それを県外・海外からの需要に結びつけていくことが重要です。実際、「県内産業デジタル化構想」など、産学官金が連携して様々な取り組み――スマート農業、建設業のDX、地域交通におけるMaaS等新サービス導入支援など――が行われていることは、とても力強く感じられるところです。

今年は新潟市でG7財務大臣・中央銀行総裁会議が開催されたほか、「佐渡島の金山」について、世界文化遺産登録を目指す動きが本格化しており、新潟への注目度は一層高まるものと思われます。そうした中でこうした取り組みが結実し、新潟県経済が一層の発展を遂げられることを祈念して、私からの挨拶とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。