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【講演】最近の金融経済情勢と金融政策運営

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きさらぎ会における講演

日本銀行総裁 白川 方明
2011年7月25日

目次

1. はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、このように大勢の皆様の前でお話しする機会を頂き、ありがとうございます。

未曾有の東日本大震災の発生から4か月半が経ちました。震災直後は資本設備の損壊、サプライチェーンの障害、電力不足から、生産活動が大きく低下しましたが、その当時と比較すると、現在は様々な供給制約も次第に和らぎ、生産活動は予想以上の速度で回復しています。しかし、その一方で、被災地では、現在もなお多くの方々が困難な生活環境のもとで、毎日不安な日々を過ごしておられるという厳しい現実が存在しています。金融政策の運営という観点からは、その性格上、マクロでの経済情勢判断が中心にならざるを得ませんが、地域や業種により状況が大きく異なることは十分認識しています。私自身も被災地を訪ね、経済情勢をマクロで括って話をするだけでは、わが国が直面している状況を語ったことにはならないことを痛感しています。さらに、マクロという観点でみても、震災直後の供給制約に由来する景気下振れリスクは薄らいできましたが、やや長い目で見た電力供給を巡る不確実性という問題が新たに浮上しています。加えて、今回の震災以前から、わが国は急速な高齢化への対応をはじめ様々な構造的な問題への取り組みが喫緊の課題になっていました。

やや前置きが長くなりましたが、本日は、短期と中長期という時間軸の違いを明確にしながら、日本経済の現状や先行き見通し、取り組むべき課題、さらには、日本銀行の金融政策運営について、お話しさせて頂きます。

2. 海外経済の動向

まず、前提となる海外経済の動向からお話しします。今回の東日本大震災の影響は甚大であり、経済論議も震災の影響に焦点が集まりますが、当然のことながら、この間も世界の経済・金融は動いています。結局のところ、供給制約が解消した後の日本経済の動きを規定する最も大きな要因は、短期的には海外経済の動向です。

米国経済については、春ごろまでのガソリン価格上昇による家計の実質購買力低下の影響や、日本の震災に伴う自動車の部品調達難の影響などから、春ごろから減速しています。もっとも、ガソリン価格は5月以降やや反落していますし、日本発のサプライチェーンの問題も、解消に向かいつつあります。したがって、足許の景気減速は基本的には一時的なものであり、中心的な見通しとしては、緩和的な金融環境に支えられ、成長テンポを再び回復させていくというのが米国の政策当局者やエコノミストの見方です。もちろん、こうした見通しには不確実性があります。最大のポイントはバランスシート調整の圧力の評価です。債務や住宅価格の状況からみて、家計のバランスシート調整はまだ進行中です。雇用の回復もはかばかしくありません。1990年代のわが国経済もそうでしたが、大きな信用バブルが崩壊した後の経済は、財政刺激策や金融緩和政策の発動を反映して短期的な景気のアヤは伴いつつも、かなり長い期間にわたって、成長率が低い状態が続きます。そうは言っても、米国経済の特質である柔軟性や資源国としての側面も考えると、かつての日本と同じ経路を辿ると考えるのは適当でないかもしれませんが、バランスシート調整の圧力が、今後どの程度強く米国の経済成長を制約し続けるのか、注意深く見ていく必要があります。

欧州経済については、全体としては緩やかな回復を続けていますが、ユーロ圏を構成するドイツ等の中心国とギリシャ等の周縁国との間で、成長率に大きな差が生じています。ドイツについては直近の失業率が7.0%と東西ドイツ統合以来の低水準となるなど、好調を持続しています。他方、周縁国では、ギリシャの直近の成長率が前年比で−8.1%となるなど、厳しい状況となっています。欧州経済をみていく上で最大のポイントは、言うまでもなく周縁国のソブリン・リスク問題の帰趨です。この問題の本質は、財政と金融システムと実体経済の負の相乗作用です。すなわち、財政赤字の拡大から政府に対する信認が低下すると、国債金利が上昇するとともに、金融機関に対する信用度も低下します。金利の全般的な上昇は景気の落ち込みをもたらしますが、そうなると、税収の減少から、財政状況がさらに悪化します。その結果、国債等の金利がさらに上昇します。このように、財政、金融システム、実体経済の三者の間に負の相乗作用が働いてしまうところに、ソブリン・リスク問題の本質があります。欧州のソブリン・リスク問題がきっかけとなって国際金融市場が不安定化しますと、世界経済全体に悪影響を与えます。この問題に対しては、ギリシャ等の当該国が財政赤字削減や競争力強化のための構造改革にしっかりと取り組む努力と、その努力が実を結び効果が実現するまでの間、EUと国際通貨基金(IMF)が協調して当該国に対して必要な資金繰り支援を行うという「時間を買う」政策の両方が不可欠です。この点に関しては、ギリシャ政府やEU、IMFが必要な取り組みを進めていますが、日本銀行としても状況を注意深くみています。

新興国・資源国については、成長率はなお高い水準にありますが、インフレ圧力の高まりや、それに対応した金融引き締めの影響などから、このところやや減速しています。インフレ圧力についてみると、中国の消費者物価の前年比上昇率は、本年6月には6.4%と、1年前の2.9%に比べると大きく上昇しています。これに対し、中国人民銀行では、2010年10月以降、5回の利上げを行っています。他の新興国でも金利は引き上げられていますが、物価上昇率を差し引いた実質短期金利は趨勢的な成長率をかなり下回っているケースが多い状況です。いずれにせよ、新興国・資源国の減速は、持続的な経済成長を実現する上でもともと必要な調整であり、また望ましい動きと言えますが、今後、物価安定と成長が両立する形でソフト・ランディングできるかどうかについては、不確実性が大きいと考えています。

以上、米国、欧州、新興国に分けて経済の現状および先行きの中心的な見通しとリスク要因についてみてきましたが、全体としては、世界経済は新興国・資源国の成長に牽引されて、高めの成長を続けると想定しています。IMFが6月に公表した見通しでは、世界経済の成長率は2011年が4.3%、2012年は4.5%と、しっかりしたものになっています。ちなみに、1980年以降30年間の世界の平均成長率が3.3%、世界的な信用バブルの時期を含む2007年までの10年間の平均成長率が4.0%であることを考えると、本年、来年の成長率見通しは歴史的に見てかなり高いものであることがわかります。このように世界経済は全体としては高い成長率を続けると想定していますが、先程、地域毎に触れたように、こうした見通しには様々な不確実性があり、そうしたリスクへの注意は怠れません。

3. 日本経済の現状と中心的な見通し

次に、今申し上げた海外経済の見通しを踏まえて、日本経済の現状と先行きについて、お話しします。

冒頭で申し上げたように、震災直後の日本経済は、突然の供給制約から、生産活動が大きく落ち込みました。また、出発点は供給制約であったにせよ、先行きに関する不透明感が強まる中、自粛ムードも加わり、家計のマインドも悪化し、こうしたメカニズムによっても個人消費は弱い動きとなりました。この結果、3月の鉱工業生産はリーマン・ショックの時にも経験しなかったような単月としては過去最大の落ち込みを経験しました。ただし、「需要の蒸発」によって企業行動がスパイラル的に収縮したリーマン・ショックの時と異なり、震災後の経済の落ち込みは、主として供給ショックによるものでした。したがって、供給制約さえ和らいでいけば生産は回復する、という見通しを当初から持つことができた点で、リーマン・ショックとは状況が異なっていました。

実際、その後の展開をみますと、サプライチェーンの修復が、当初の予想を上回るペースで進み、落ち込みがとくに大きかった自動車産業を中心に、生産水準が急速に回復しています。電力不足についても、この夏場について言えば、電力会社の供給能力増強に加え、節電や需要平準化の工夫などによって、震災直後に懸念されていたほどには、経済活動の大きな制約要因とはなっていない模様です。企業からのミクロ情報も併せて判断すると、鉱工業生産は、7〜9月中に震災前の水準を概ね回復するとみられます。家計のマインドも幾分改善しています。企業のマインドという点では設備投資の動向に注目していますが、短観の設備投資計画をみても、製造業を中心に3月対比で上方修正されるなど、しっかりとしたものとなっています。

当面の最大の懸念材料であった供給制約が解消した後は、景気の展開は短期的には需要動向によって決まってきます。そうした観点から先行きを展望しますと、以下の2つの要因が重要です。第一は、海外経済の高い成長を背景に、輸出が増加を続けていくとみられることです。第二は、震災によって毀損した資本ストックの復元、いわゆる復興需要も、徐々に出てくると予想されることです。後者の復興需要については、現時点では限定的な規模に止まっていますが、今後、復興の全体像が明確になるにしたがい、次第にはっきりしてくるとみられます。さらに、東北地区での個人消費関連のデータをみますと、「復興需要」という言葉には馴染まないかもしれませんが、自動車や家電製品をはじめ、耐久消費財の買い替えなど、生活再建のための「復旧消費」が、既にある程度、活発になりつつあります。

以上のような各種の情報を踏まえると、日本経済は、本年度後半以降、緩やかな回復経路に復していくと考えられます。日本銀行は4月末に展望レポートを公表し、7月にはこれに対する中間評価を行いましたが、その際の各政策委員の予測の分布の中央値で申し上げると、2011年度の実質GDP成長率は前年比0.4%となっています。4月に公表した展望レポートに比べて幾分下振れていますが、これは、震災により1〜3月期が大幅なマイナス成長となった結果、2011年度にかけての発射台—いわゆる統計上の「ゲタ」—が下振れたことが主として影響しています。2012年度については、実質GDP成長率は前年比2.9%と、概ね4月展望レポートどおりの高めの成長を予想しています。

次に物価動向です。消費者物価の前年比は、マクロ的な需給バランスの改善を反映して、下落幅は着実に縮小してきました。本年4月には、2008年12月以来、2年4か月振りにプラスに転じ、5月も0.6%となっています。物価の先行きを展望するに当たって、国際商品市況についての想定が重要なポイントのひとつになりますが、新興国の高成長に伴って緩やかに上昇を続けると考えています。もうひとつの重要なポイントは中長期的な予想物価上昇率ですが、エコノミスト等の予想をみると、1%程度で安定的に推移しています。日本銀行は金融政策運営にあたって念頭に置く物価安定の数値的定義を「中長期的な物価安定の理解」という形で公表していますが、その中心は1%程度であり、エコノミスト等の中長期的な予想物価上昇率と同じ水準になっています。この中長期的な予想物価上昇率については、今後も安定的に推移すると想定しています。そうしたもとで、消費者物価の前年比は、景気回復に伴うマクロ的な需給バランスの改善傾向を背景に、小幅のプラスで推移すると予想しています。展望レポートの7月中間評価の政策委員見通しの中央値で表すと、2011年度、2012年度とも0.7%となっています。

ただし、日本の場合、消費者物価指数は5年に一度基準改定が行われ、本年8月半ばに公表される新基準の計数では前年比のプラス幅が下方改定される可能性が高いことはかねて申し上げてきているとおりです。やや技術的になりますが、日本の消費者物価指数の作成方法では、消費者の購入する商品のバスケットは固定されているので、基準年から時間が経過するにしたがって、価格が下落したことで購入量が増加している商品の価格下落の影響が、反映されにくくなります。いわゆるラスパイレス・バイアスです。その典型がパソコンやテレビなどの商品です。その結果、前回改定から約5年が経過した今の消費者物価指数は、前年比上昇率が高めに出ており、それが今回の基準改定で一挙に下方に修正されることになります。下方修正の具体的な幅についてはエコノミストが推計値を公表していますが、比較的推定が容易なラスパイレス・バイアス以外にも、新規にどのような商品が採用されるか、価格を把握する際にどのような算定方式が採用されるかといった事情にも影響されるので、事前に正確にはわかりません。企業や家計は個々の商品の価格を見ながら日々生産や支出の決定を行っており、物価指数の基準改定という統計上の技術的な修正をもって物価の実勢や人々の経済行動が変わるわけではありませんが、日本銀行としてその内容やその意味を点検してまいりたいと考えています。

4. 先行きのリスク要因

以上が、相対的に蓋然性が高いと考えられる中心的な経済・物価の見通しですが、先行きには常に不確実性がありますので、見通しが実現しないリスクについても冷静に認識しておく必要があります。

海外経済に関するリスク

第一のリスク要因は、海外経済の先行きに関するものです。この点については先程触れたので繰り返しませんが、米国、欧州、新興国・資源国ともに、それぞれリスクを抱えています。このような海外経済を巡るリスクに関連して、為替市場の動きにも注意が必要です。すなわち、世界経済の先行きに対する不確実性が高まると、投資家のリスク回避姿勢が強まり、相対的に安全とみられている通貨に上昇圧力がかかる傾向があります。震災後の先進国通貨の名目実効為替レートの動きに則して言えば、スイスフランが最も上昇し、次いで円の順番となっています。円高には、輸入原燃料コストの低下などのメリットもありますが、海外経済の不確実性の高まりがその背景となっているような局面では、輸出や企業収益の減少、企業マインドの悪化などを通じて、景気に悪影響が及ぶ可能性があり、注意深くみていく必要があります。

震災の影響に関するリスク

先行きの経済・物価を巡る第二のリスク要因は、今回の震災に起因する中長期的な影響です。震災の影響と言っても、注目すべきポイントは、時間の経過とともに変化します。震災直後に懸念されたサプライチェーンの回復の遅れや、この夏の電力不足のリスクは、後退しています。しかし、家計のマインドについては、幾分改善しているとは言え、震災前に比べてなお弱く、個人消費の回復の動きも、外食や旅行などの分野では鈍いと言わざるを得ません。当面の個人消費の動向は、丹念に点検していく必要があります。

ここへきて不確実性が強まっているのは、定期点検後に原子力発電所が再稼働できなくなった場合の電力供給制約の問題です。その場合、電力供給の減少を、当面他の手段で完全に補うことは難しいと考えられるため、夏場や冬場を中心に、電力不足が恒常化し、様々な対応努力をしても、経済活動が制約される可能性が高くなります。また、原子力発電を火力発電である程度代替していく場合でも、安全対策を強化して原子力発電を継続する場合でも、これまでよりはコストがかかります。いずれにしても、電力コストの上昇によって、企業収益や家計の実質購買力が圧迫され、設備投資や個人消費が抑制される可能性があります。さらに、より長期的な観点からは、日本経済の中長期の成長力の低下要因となるリスクも、認識しておく必要があります。今回のサプライチェーンの毀損により、国内生産の震災リスクが改めて意識されるようになっています。それに加えて、電力の安定供給やコストを巡り不確実性の大きい状態が続くことになれば、海外生産シフトの動きが加速する可能性も、無視できなくなります。

5. 日本経済の中長期的な成長力の強化

以上、震災の影響や海外経済の動向を踏まえた日本経済の見通しを説明しましたが、震災からの復興という問題を考えれば考えるほど、震災前からの大きな課題であった中長期的な成長力の強化に、改めてしっかり取り組むことの必要性を痛感します。そこで次に、日本経済の成長力の強化のためにどのような取り組みが必要であるかについてお話しします。

成長力強化の必要性

具体的な取り組みを考えるに当たっては、まず問題を正確に認識する必要があります。正しい処方箋の実現には様々な政治的、社会的困難が伴うことについては多くの人が指摘していますが、そうした処方箋の実現が難しいのは政治的、社会的困難にあるというよりも、そもそも日本経済の抱えている問題の本質は何か、成長率低下の原因は何であるかについての認識が十分でないことにも起因しているように感じています。

そこでまず、日本の経済成長率の長期的な推移を改めて振り返ってみますと、1970年代は年平均5%、80年代は4%台半ば、90年代は1%台半ば、そして2000年代は1%にも満たない成長率まで、傾向的に低下してきています。高度成長への離陸(take-off)に成功した国はしばらくの間、高度成長を続けた後、いずれかの段階で安定成長へと移行します。日本の場合もそうでしたが、大きなつまずきはその過程で生じたバブルでした。バブル崩壊の影響もあり、1990年代には成長率が大きく低下しましたが、その後も、成長率のトレンドを変えることはできていません。2年や3年といった期間では、震災といった供給ショック発生の時期を除けば、成長率は需要の変動に大きく影響されますが、10年、20年という期間の平均的な成長率、すなわち、その国の経済の中長期的な成長力は、供給サイドに規定されると考える方が自然です。実質GDPを分解しますと、「就業者数」と「就業者一人当たり実質GDP」の積になります。成長率で表現すると、就業者数の増加率と労働生産性の成長率になります。このシンプルな数字を使って、以下の事実を強調したいと思います。

第一は、1990年代と2000年代に入ってからの変化という点では、就業者数が減少していることの影響が次第に大きくなっているという事実です。生産活動の主な担い手であると同時に、消費や納税といった面でも中核を担う年齢層である生産年齢人口は、95年頃をピークに減少し始め、2000年代入り後、減少ペースが加速しています。こうした状況は、労働力人口の伸びを低め、供給面から経済成長の重石となるだけでなく、需要面からみても、高齢化に伴う需要増加の受け皿となる医療・介護といった分野での規制緩和や現役世代の財政負担増加を是正するような措置が採られない限り、成長率の引き下げ要因となります。

第二は、成長力のもうひとつの重要な決定要因である労働生産性上昇率は、近年低下してきたとはいえ、日本は先進国の中では米国と並んで上位グループに属しているという事実です。後から述べるように労働生産性上昇率引き上げに向けた努力は必要ですし、実際にもそうした努力によって引き上げを図る余地はあると思っていますが、これまで1%程度であった平均的な労働生産性上昇率が、一挙に1%も2%も上昇すると想定するのは現実的ではありません。高度成長を終えた国は、どの国でも、生産性の上昇率にそれほど大きな違いは見られません。成長力の強化に全力で取り組んでいくことはもちろん必要ですが、いったん成熟段階に達した国の成長力が、飛躍的に高まるわけではない、という冷静な認識も持っておくべきだと思います。

それでは、現状の本質的な問題は何でしょうか。私は最大の問題は、現状を放置すると、現在は国際的にみて相対的に高い生活水準を維持すること自体ができなくなることだと思っています。相対的に高い生活水準という点について付言しますと、一人当たりのGDPの水準は現在もなお国際的には高い方に位置します。これに加えて、日本人の平均寿命が非常に高いという事実は、GDPという指標では測れない健康という人間の幸福にとって非常に重要な条件のひとつが、海外との比較ではかなり高い水準で達成されていることを意味しています。問題はこうした高い生活水準を我々の子供や孫の世代、すなわち、将来にわたって維持することが可能かということです。現状を放置すると、それは難しくなります。キーワードは、持続可能性(sustainability)です。一国の経済活動を単純化して表現すると、現役世代が就業者として生産活動を行って所得を稼ぎ、また将来の就業者である子供達を養育します。また、かつての就業者である高齢者は自らの現役時代に蓄えた貯蓄と社会保障によって生計を立てます。その社会保障を負担するのは現役世代です。社会は世代交代を伴いながら、生活水準の向上を図ってきました。重要なことは世代間の円滑なバトンタッチです。この点で、急速な高齢化や人口の減少は、そうした客観的な環境の変化に対応した制度や慣行の見直しが図られなければ、経済の持続可能性に影響します。以下では、持続可能性という観点から、必要な取り組みについて説明します。

労働参加の促進

第一の取り組みは、就業者数をなるべく減らさない、できればむしろ増やしていく努力です。具体的には、女性の労働参加率を高めていくことです。年齢階層別にみた女性の労働参加率は、M字カーブと言われているように、30歳代の部分が下がっています。これは、他の先進国とは異なる日本の特徴であり、子育て世代の女性にとって、日本が働きにくい社会であることを示唆しています。こうした状況を改善し、女性の仕事と子育てが両立する環境を整えていくことは、経済成長のためだけでなく、社会的にも意義のあることです。また、日本人の寿命が延び、健康と体力に恵まれた高齢者が増えている、という事実も見逃せません。高齢者の体力は以前よりも向上しており、元気に働ける人が増えているという調査もあります。働く意思と能力がある高齢者が各人の置かれた状況に応じて働ける社会を築いていくことは、経済成長へのプラス面はもとより、そのこと自体が人生の豊さにつながると思います。

労働生産性の引き上げ

第二の取り組みは、「労働生産性」を引き上げる努力です。労働生産性の引き上げという言葉は、コスト削減・合理化という意味でも使われますが、私が強調したいのは、就業者一人ひとりがより多くの付加価値を生み出していく、という拡大均衡的な側面です。付加価値とは、最終的に企業収益や賃金として分配される原資のことです。したがって、付加価値を高めるということは、企業が、支払う賃金を増やしながら、自らの収益も増やしていく、ということと同じです。そのためには、コスト削減も必要ですが、新たな市場の開拓によって、企業収益を伸ばしていくことが必要です。それを実現していく方向性として、以下では三点、例示したいと思います。

まず、グローバル需要の取り込みです。世界が高い成長を続けていく中で、グローバル需要を積極的に取り込んでいくことの重要性は、一段と高まっています。この関連で、企業の海外拠点拡大も、日本に見切りをつけるという消極的な選択の結果ではなく、グローバル戦略の強化という拡大志向のもとに展開されるならば、結局、日本経済にもプラスに働く可能性が高い、と考えられます。現在、日本企業の海外での生産比率は2割弱ですが、この比率は、世界経済に占める日本のGDPの比率が徐々に低下することに反比例する形で上昇しています。つまり、新興国が成長し、相対的に日本の経済規模が低下するにつれ「地産地消」の原理が働き、海外での生産が増えています。そして、海外生産が拡大してきた過程を通じて、国内拠点は、本社機能・研究開発機能の高度化や、海外拠点への中間品の輸出増加など、役割を変えながら内外分業の一翼を担ってきました。

今後、日本企業が、変化の大きいグローバル市場で勝ち組となっていくために、M&Aはますます重要性を増していきます。この点、フローの成長力が低下してきた日本にも、豊富な金融資産や技術のストックという強みがあります。実際、最近は、潤沢な資金を持つ企業が、成長性のある海外企業を積極的に買収する事例も、目につくようになってきました。

グローバル需要の取り込みは、「モノづくり」の分野に限りません。観光先としての日本の魅力をさらに高めていく努力は、中長期的には大きな成果につながると考えられます。以上のように、日本が取り組むべきグローバル戦略は、多分野、多岐にわたります。そうした可能性を最大限に活かすため、FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の枠組みを着実に拡充していくことなどは、きわめて重要だと思います。

労働生産性引き上げの方向性として、環境やエネルギーに関連した技術革新、あるいは潜在需要の開拓も重要です。今回の震災をきっかけに、エネルギー分野や環境分野における技術革新のニーズは、これまで以上に高まると見込まれます。日本がこれまで培ってきた高度な技術基盤を活かしながら、LED照明の普及等を通じた「省エネ」、太陽光発電等を活用してエネルギーを創り出す「創エネ」、蓄電池の大容量化・低コスト化を進めて活用していく「畜エネ」、を合わせて実現していくことは、成長力を高めていく取り組みとして有望と考えられます。

さらに、国内においても、潜在需要の掘り起こしにより、市場を開拓し、付加価値を創出していく努力も重要です。人口の減少と高齢化により、国内市場は縮小の一途を辿る、という悲観論が時々聞かれますが、高齢化社会にあっても、人々が持つ潜在ニーズは多様かつ無限であり、それらを探り続けることは、付加価値の重要な源泉です。

6. 財政健全化への取り組み

以上、経済の持続可能性という観点から、労働参加の促進、労働生産性の向上という取り組みについてお話ししてきましたが、持続可能性という観点からはもうひとつ非常に重要な取り組みがあります。言うまでもなく、財政健全化への取り組みです。わが国の政府債務残高が既に膨大な規模に達しており、今後の高齢化のさらなる進行は、財政収支を一段と悪化させる要因です。財政バランスの悪化はふたつのルートを通じて経済活動に悪影響を与えます。第一は、現役世代の負担増加が消費を抑制する効果です。第二は、先程、欧州のソブリン・リスク問題で説明したように、政府の債務返済能力に対する信認が低下した場合に起こる、財政、金融システム、実体経済の負の相乗作用です。財政バランスの改善という点では、もちろん、成長力の強化は必要ですが、これによる自然増収だけで、持続可能な財政運営を確保していくことには限界があります。デフレの克服も重要ですが、物価が上がる時には歳入も歳出も増加し、過去のデータをみる限り、これによる財政バランス改善の効果は限られています。その意味で、歳出・歳入の改革自体に取り組んでいく必要があると考えられます。

ところで、日本の財政バランスは悪化しているにもかかわらず、日本の長期国債金利は世界で最も低い水準で安定的に推移しています。その理由に関するひとつの解釈は、「現在の状況が放置され続けることはなく、いずれ財政健全化へ向けた具体策が採られるはずである」と、市場参加者が受け止めているというものです。もうひとつの解釈は、「これまで金利が落ち着いていたので、これからも当面はそうした状態が続く」と、市場参加者が漠然とした予想を抱いているというものです。重要な点は、今申し上げたいずれの場合であっても、財政健全化への具体的な取り組みが見えてこなければ、どこかの時点で、市場の見方は突然変化する可能性があるということです。

財政健全化は、現在、多くの先進国に共通した課題となっています。これは、リーマン・ショックのあと、金融システムの安定を確保し、また、マクロ経済への影響を和らげるために、各国とも大規模に財政資金を活用したためです。欧州でも、ソブリン・リスク問題が顕在化している諸国に限らず、多くの国で財政バランスが悪化しています。米国でも、政府債務の上限到達時期をギリギリに控え、緊迫した状況が続いています。こうした状況の下、今後、何らかのきっかけで世界的に国債金利が上昇し始め、とくに財政運営が脆弱な国に、大きな影響が及ぶ可能性があることは意識しておく必要があります。財政に関連しては、震災後、国債の日銀引き受けや、復興財源捻出のための日銀による国債の買いオペといった提案が聞かれることがありますが、中央銀行が財政ファイナンスを目的として金融政策を運営していると見なされると、長期金利は上昇し、日本経済に悪影響を与えます。震災後、様々なリスクが「想定外」であったのかどうかを巡って活発な議論が行われていますが、中央銀行による国債の引き受けや実質的な引き受けによって起こる問題は、「想定外」の話ではなく、今の時点で十分認識できるリスクです。財政悪化に由来するリスクを減らすためには、財政健全化への道筋を明確に示し、実際に取り組んでいく必要があります。

7. 日本銀行の金融政策運営

最後に、これまで述べてきた日本経済の見通しや中長期的な課題を踏まえた上で、日本銀行の金融政策運営についてお話しします。

震災直後の日本銀行の対応については既に何度もお話しする機会があったので、本日は詳しい説明は省略しますが、金融が原因となって経済が不安定化することを防ぐ観点から、金融市場への潤沢な資金供給、国民の生活や経済活動の基盤となる決済機能の維持に努めるとともに、追加的な金融緩和も決定しました。

金融政策の運営スタンスについてもう少し詳しく説明すると、日本銀行は現在、包括的な金融緩和政策を通じた強力な金融緩和の推進、金融市場の安定確保、成長基盤強化の支援という3つの措置を通じて、中央銀行としての貢献を粘り強く続けています。

このうち、包括的な金融緩和政策は、昨年10月に始めた枠組みであり、3つの内容からなっています。第一に、政策金利、具体的にはオーバーナイト物の無担保コールレートを、0〜0.1%というきわめて低い水準に誘導しています。第二に、この実質的なゼロ金利水準を、金融面での不均衡が蓄積していないことを確認した上で、物価の安定が展望できる情勢になったと判断するまで継続することを明らかにしています。その「物価の安定」の内容については、日本銀行の考えを「中長期的な物価安定の理解」という形で示しており、消費者物価指数の前年比で2%以下のプラスの領域、中心は1%程度、となっています。

包括的な金融緩和政策の3つ目の内容は、「資産買入等の基金」を設け、それを通じて、固定金利方式による長めの資金供給と、国債、CP、社債、ETF、J−REITなど、多様な金融資産の買入れを進めていることです。狙いは、政策金利からの間接効果だけでなく、長めの市場金利や各種のリスク・プレミアムに直接的に働きかけて、金融緩和の効果を高めることにあります。この基金は、昨年10月に35兆円でスタートしましたが、景気の下振れが懸念された震災直後の決定会合で、リスク性資産を中心に金融資産の買入れを増額し、基金全体の規模は40兆円に拡大しています。現在はその方針に沿って、資産の買入れを着実に進めている段階です。

以上の3つの内容からなる包括的な金融緩和政策は、物価の安定のもとでの持続的な経済成長へ向けて、日本経済を後押ししていくことを、目的としています。ただし、先程も述べたとおり、日本経済が抱える最も大きな問題は、成長力の低下という問題であり、いわゆるデフレの問題は成長力の低下という本質的な問題の表れです。デフレは体温の低下に相当し、必要な対応は、成長力の強化という、言わば基礎体力の強化です。そうした観点から日本銀行が行っているのは、成長基盤強化を支援するための資金供給です。これは、日本経済の成長基盤強化に資するような投融資に取り組んだ金融機関に対し、国債など日本銀行が適格と認める担保を裏付けに、総額3兆円まで日本銀行が長期の資金を低利で貸し付けるものです。

本年6月の決定会合では、新たに5,000億円の資金供給枠を設定しました。この新たな資金供給枠については、成長企業に対する出資や、従来型の担保や保証によらない融資手法に、焦点を当てて支援することにしました。ここで主として念頭に置いている融資手法は、動産・債権担保融資(Asset Based Lending)です。これは、企業が持つ在庫、機械設備、売掛債権など、事業と密接に関連する資産を担保とする融資手法であり、日本では今のところ限定的にしか行われていませんが、米国では盛んに行われています。ABLの最大のメリットは、不動産担保や経営者の個人資産が乏しい企業に対しても、資金調達の道が開かれるという点です。例えば、創業期の企業は、総資産に占める売掛金の構成比が高くなる傾向にありますが、その売掛金を担保として有効活用できれば、事業拡張へ向けた資金調達がより円滑になります。一方、ABLは、不動産担保融資などに比べて、手間がかかると言われています。しかし、見方を変えれば、ABLを活用する過程で、企業と金融機関が手間をかけ、事業の特徴や将来像について密接なコミュニケーションを深めることが、事業の成長性や収益性をより正確に認識した企業行動に、つながると考えられます。

以上の措置とは別に、日本銀行は、被災地支援という点でも、様々な施策を講じています。そのひとつは、被災地の金融機関を対象に、予想される復旧・復興に向けた資金需要への初期対応を支援するために行っている長めかつ低利の資金供給オペレーションです。今後、復旧・復興に向けた資金需要が本格化してくる局面では、その具体的な状況や、民間金融機関の取り組み、さらには政府における支援状況も踏まえつつ、中央銀行として、さらにどのような支援が望ましいか、検討を進めてまいります。

以上のように、日本銀行は、短期、中長期の時間軸を意識しながら、金融政策面で様々な取り組みを進めておりますが、今後も、先行きの経済・物価動向を注意深く点検し、必要と判断される場合には適切な措置を講じていく方針です。

8. おわりに

そろそろ時間がなくなってきましたので、本日の話を締め括りたいと思います。日本経済はもともと大きな課題を抱えていたところに、今回の震災による試練が加わりました。大変に難しい課題に直面していることは間違いありません。しかし、いたずらに悲観論に陥ることは、避けなければなりません。わが国は、過去、例えばオイルショックの際に、技術革新を加速させることによって、省エネ社会を実現しました。また、明確な課題に対する日本人の問題解決能力の高さは、今回のサプライチェーンの回復の早さにも表れていたように思います。早期復旧の過程では、日本企業が持つ「現場力」「現場知」が存分に発揮されました。「おもてなし」の心や独創性のあるコンテンツ、さらには震災直後の秩序ある行動や助け合いなど、日本には、国際社会からの信頼や共感を得る「ソフトパワー」もあります。世界的な金融危機や、今回の震災に対しても、日本の金融システムは安定を保ちました。世界で最もダイナミックな東アジア地域に位置している、という地理的なメリットもあります。

このように、現在の日本には、明るい未来を生み出しうる要素も、決して少なくありません。危機感は必要ですが、悲観は禁物です。現実の問題を直視する一方、自分達の力を信じて、改革に取り組むことが、大切だと考えています。

本日は、ご清聴ありがとうございました。